試合の必要のない武道

このブログを通して合気道、カラリパヤットと2つの武道をご紹介してきました。両者共に肉体を鍛え上げて戦闘能力を高めるために武道を行うのではなく、武道の身体操作を通して自由に動く身体を造り上げ、その過程の中で最終的には「天地の気に合する」ために行い、あるいは「プラーナの体得」のために行います。肉体を鍛え武道を修めるのはあくまで準備段階なのです。目的を可能とする型稽古を繰り返し行い、自問自答を繰り返し、第六感も含めた感覚を養う事で、それぞれの武道の目的は達成されていきます。

 

そのため、両者共に「試合がない」というのが特徴なのです。試合を行ったとしても、目的を考えたら百害あって一利なしなのです。

 

試合を行うという事は、常に対手を意識する事になります。目的が常に対手を攻略すると言う目先の目標になります。そして色々な感情が沸き起こります。エゴが増加します。勝っても負けてもエゴはどんどん増えていき、相対的な争いの道に入っていきます。そのような精神状態で、全てを活かしている「天地の気」や「プラーナ」に通じれる訳がありません。だからこそ、試合をしようという発想自体が間違っているのです。ネットの動画で合気道家が他流試合で負けるというものがありますが、そもそも試合を受けた時点で間違っているのだと思います。どちらが強いか、優劣を決めようと言うエゴの世界に合気道家が踏み込んではいけないのだと思います。結果的に汚名をさらしてしまったのは、間違っていた証なのではないでしょうか。

 

『ヴェールを脱いだインド武術』(伊藤武著)に、戦いにおけるカラリパヤットの精神が書かれています。「もし、誰かが汝に攻撃をしかけてきたとする。汝は謙虚に挨拶(合掌)して、対手の敵意を逸らすべし。神が汝を救いたもうであろう。そうであれば汝は、対手を赦すべし。もし、彼が二撃目をくり出してきたとする。汝はカルーリカの技術と汝の心のなかにいるシヴァ神の教えを用いて、うまくそれを躱すべし。もし、それでも敵が三撃目をくり出してきたとする。賢き者よ、その動作を注視し、馬鹿者が汝の膝の上にたおれるようにすべし(反撃すべし)。そして、その後、蘇生法をほどこすべし。」

このように、極力争いを避ける姿勢が書かれています。エゴを増加させる戦いには与しないのです。逆に礼法によって戦意を喪失させ、調和させる事を最も良しとしています。相手を争いの世界から外す事が最良としているのです。

 

試合の世界は、どこまでいっても勝ち負けの世界、争いの世界、エゴの増大の世界です。そのフィールドに入ったなら、エゴのぶつかり合いですから、一時的にエゴの強いものが勝利を修めます。上記の合気道家が踏み込んでしまった世界です。敵の土俵に入ってしまったのです。だから負けるに決まっています。戦意を喪失させ、相互に高めあう方向に導くのが合気の道と思われます。

 

そこで一つの疑問が生まれます。天地の気に合したい、あるいはプラーナを体得したいのであれば、それだけを純粋に目指せば良いのに、なぜ争いにつながりやすい武道という方法を取っているのでしょうか。

 

それは恐らく、戦いという最も争いや憎しみが生まれやすい中に入り込み、そこに平安と調和をもたらしたいという勇気ある姿勢、高い志が背景にあるからなのだと思います。あえて汚れた世界に入り込み、その汚れを洗い去る、それを理想としているからこそ、あえて「武道」という形態を取っているのではないかと思います。「武」の字は「戈(ほこ)を止める」という意味から来ています。この「武」の理想を体現しようとしているのが、合気道、カラリパヤットなのではないでしょうか。

 

ヒンドゥーの最重要の経典とされる『バガヴァット・ギーター』では、身内との戦争という現実に打ちひしがれ、戦意を喪失するアルジュナに対して神の化身であるクリシュナが戦いを鼓舞する描写があります。クリシュナは「正義が侵された時は戦わなくてはならない。正義が侵されているにも関わらず、感傷に浸り詭弁により戦いを避ける事は戦士のする事ではない。戦え!アルジュナよ!」と、戦うべき時は戦いを避けてはいけない事をクリシュナは説いています。これは誤解を招きやすい部分ではありますが、正しい行いが歪められるのをみすみす見逃してはならないと説いているのです。

 

このように、有事の際には戦えるように備える事も、武道の重要な役目と思われます。しかし、現代においてこのような場面はほぼありません。ですが生き方として、上記のように人の中に入り込み、争いから調和に導く姿勢は非常に重要な事と思います。一人で心の平安を求めて修行するのはそれこそエゴです。武術としての表現をしなかったとしても、生き方として正しきものを尊び、人々に調和をもたらし、苦しんでいる人に尽くしているとしたら、それが本当の「武」の道なのかもしれません。