「柔道整復師」の流れ

前のコラムで柔道整復師の資格の由縁についてご紹介しましたが、今回は「柔道整復師」と呼ばれる人達がどのような歴史を辿って現代まで至っているのかを、追っていきたいと思います。

 

まず、柔道整復師の基となる職業は江戸時代に「接骨」と呼ばれる人達でした。彼らは柔術を修めており、その稽古の過程で出る怪我の処置に長けていたために、「ほねつぎ」「接骨」と呼ばれる治療の仕事も行っておりました。これが柔道整復師の基となる職業です。

 

柔道の創始者である嘉納治五郎の師匠も柔術兼接骨の仕事を営んでおり、天神眞楊流という柔術流派の師匠でした。しかし嘉納治五郎は接骨業を営む事はなく、「柔道」を創始し、柔道という武道を通して心身の修養を図る事を目的としました。

 

この嘉納治五郎の講道館柔道が非常に反響を呼び、門弟が増えてくると他の柔術道場は講道館を目の敵にし、自分の道場の有効性や有能性を宣伝しなければならなくなりました。実はここから「活法」「殺法」という言葉が出てきたと論文である『活法殺法(柔道整復術の源)の歴史と医術武術の歴史~活法・殺法の歴史は、医術・武術の歴史となり得るか~』(郡佳子他)に紹介されています。この時代、柔術家は柔道を目の敵にし、自らの優位性を示すために接骨技術がある事を宣伝材料にしていたのです。

 

そして時代を経て、明治維新の時を迎えます。1874年(明治7年)に公布された「医制」により、西洋医学が主流となる社会の流れとなり、接骨も含めた東洋医学存続の危機を迎えます。他の手技療法であるはり・きゅう・あマ指は盲人の仕事であった関係で法的に守られる事となりますが、西洋医学では整形外科があり、整形外科の仕事と重なる上に晴眼者の仕事であった接骨業は存続させる意味がないと判断されてしまいます。この接骨業絶体絶命の窮地で、接骨業を救ったのがなんと目の敵としていた「柔道」だったのです。当時柔道は嘉納治五郎の尽力により海外にも知れ渡っており、世界的に日本を代表する武道となりつつありました。国際化を図る日本にとって、「柔道」は非常に重要な存在になっていたのです。柔術と柔道は本来別物ではあったのですが、この時代の流れの中で柔術家による接骨業を生かすには、柔道の名を借りて保護する事が無難であろうと言う流れになったのです。この頃、接骨業を存続させようと運動していたグループが「柔道接骨術公認期成会」というものでした。この時点で「柔道接骨」という名前になっているのは、接骨業をしている人の中でも柔術家だけではなく柔道家の人もいたためです。柔術家によって受け継がれた接骨術が、武道の側面だけに特化していき隆盛した柔道を目の敵にし、最後は柔道によって存続が可能となるという、皮肉めいた歴史の流れがあったのです。

 

そして現代、柔道整復師という名前の職業となったわけですが、柔道整復師には職業上、もう一つ大きな特徴があります。それは傷病に関して独自の療養費が使える事です。つまり保険を使って安価な治療を行えるという事です。これにより不正が多い事が現在、問題になっている所ではありますが、なぜ同じ手技療法である、はり・きゅう・あマ指の保険療養の条件が厳しく、柔道整復師は独自で許されているのでしょうか。調べてみたところ、確かに最もな理由がありました。それは昭和7年頃、「健康保険取扱い獲得運動」というのが柔道整復師の間で始まるのですが、それは患者が工場労働者が多かった事から始まっています。つまり怪我が付き物の職業を支えるという事で、「労災」の処置ができるという方向から保険取扱い獲得に進んだのです。そう思うと、確かにはり・きゅう・あマ指は幅広い症状に処置ができる反面、「これに特化している」というのもありません。はり・きゅう・あマ指は対象となる疾患が限定されていない事が、保険療養としにくい由縁なのです。

 

そのような流れで、柔道整復師は紆余曲折がありながら現在まで至っています。傷病に対する非観血療法が特徴となっていますが、学ぶ内容や技術は西洋医学的であり、スポーツ医学と呼べるような内容と思えます。そして「柔道」という名を冠していながら、柔道の中には接骨技術は存在しておらず、接骨技術が柔道を上達させるわけでもないという、「柔道」と「接骨」は完全に切り離されて存在しています。それは元々柔術の流れからきた接骨技術が、時代の流れで柔道の名を冠せざるを得なかった事から来ています。そういう訳で、ほぼ柔術による接骨技術は失伝していると言えそうですが、存続を危ぶまれた時代の流れの中で、逞しく時代のニーズに応えて残ってきた職業でもあるのです。